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岩波ホールに感謝 2022・08・10

 岩波ホールが、先月7月29日をもって閉館した。

発信するのが遅くなってしまったが、これまでの感謝の思いを伝えたい。また同時に、私だけではないけれど、存続に貢献できずに申しわけなかった、という気持ちもある。

 岩波ホールでしか見られない数々の映画を見せていただいた。そのセレクションは、本当に信頼できるものであった。

 そして、個人的な感謝の思いもある。


 総支配人だった高野悦子さんと親しくお付き合いさせていただいたのは、土本典昭さんと共同監督をした『よみがえれカレーズ』(1989)からだ。

 土本さんは、この映画には、ベールの奥に隠されている戦下のイスラム女性の姿も出てくるから、まず高野さんに見せたい、と言った。

 ホールの上映が終了した遅い時間から、事務所隣のシネサロンで試写をした。高野さんの隣に座っていた私は、映画を観る高野さんの熱量を、ひしひしと感じた。


 土本さんは、高野さんの英断で、『医学としての水俣病 三部作』(計4時間半)と『不知火海』(約2時間半)の完成特別ロードショーを、岩波ホールで行った経験がある(1975年 4月、20日間)。計7時間におよぶ上映だったが、その頃の水俣病をめぐる社会情勢もあり、連日満席だった。常識破りの上映に躊躇していた土本さんは、高野さんに叱咤激励されたそうだ。

 結果的に『よみがえれカレーズ』は、高野さんが総合プロデューサーを務める東京国際女性映画祭(第3回)で上映された。


 その後、私が娘を産み、まだ保育園に預ける前のこと。「子育てに追われて映画も見れない」と、当時、高野さんの秘書役であった大竹洋子さんに言うと、「じゃあ、連れていらっしゃいよ」と。

マンションの一室で、授乳とおしめ替えの孤独な日々が続いていたから、欣喜雀躍として出かけた。娘は事務所入り口のソファーに寝かされ、私が映画を観ている間、経験のあるスタッフが面倒を見てくれた。戻るとスヤスヤ寝ていた。

 娘が目を覚まし、私が哺乳瓶を取り出すと、高野さんが「私がやるわよ」と言う。やや危なっかしい手つきで抱き上げて、飲ませる。娘は泣く。高野さんは「私が抱くと赤ん坊はみんな泣くのよ」と平然としている。何とかミルクを飲み終わったところへ、『ジャック・ドゥミの少年期』(1991)公開のために来日していたアニエス・ヴァルダさんが入って来て、「オー、べべ!」と大声をあげて駆け寄り、抱きしめてブチュブチュブチュッ。

 

 高野悦子さんには、本当にたくさんのことを教わった。

 今でもその言葉が、頭をよぎることがある。

 「低きに流れてはいけない」と再三、言われた。

 そして、「上映作品を選ぶ時は、自分がこの映画の上映中に死んでもいいという覚悟ができるかで決める」、と著書に書いてあるのに衝撃を受けた。


 神保町の交差点で、岩波ホールの上映看板を見て、どれほど励まされたことか。

改めて、自分自身がいい作品を作り続けなくては、と思う。


 写真は、最後の上映作の看板。神保町駅。もう岩波ホールのこの看板を見ることはできない。

 そして館内に飾られていた、54年間の、映画祭も含め、300近い上映作品のチラシ。




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