10日ほど前から、福島市内のウィークリーマンションに暮らしている。撮影&運転担当の娘と共に。
原発事故の2年後から、双葉町や浪江町の帰宅困難地域や、避難した方たちを撮らせていただいてきた。往復はかなりした。ただ長くても東京から行く3泊4日で、ある程度“生活”しないと、皮膚感覚で理解できないのではないかと、感じていた。3・⒒の少し後までいる予定で、たかだか3週間ではと思う。ただ地元のスーパーで買い物し、自炊をするのは少しは違うのかな、とも。
コロナのこともあった。東京でPCR検査をし、福島に着いてすぐこちらの医療機関でも検査をしてから行動を開始した。東京からなので、そこまでしなければ、相手の方に安心していただけないと思った。
そんな中、3月1日に、福島地裁で『子ども脱被ばく裁判』の判決があった。
福島県内に住む、または県外に避難している親と子どもたち約200人が、7年近く闘ってきた。
子ども人権裁判(行政訴訟)の原告は、県内の公立小中学校に通う14人(当初は40人いたが、卒業し減った)。被ばくの点から、安全な環境の施設で教育することを求めている。
親子裁判(国家賠償訴訟)の原告は158人(58家族)。情報の隠ぺい、子どもたちに安定ヨウ素剤を服用させなかった、危険な状態での学校再開、集団疎開をさせなかった、山下俊一らを使い嘘の安全宣伝をした責任を問い、国と県を訴えた。
私がこれまで、この裁判にかかわってきたわけではない。だが住んでいる東京‣杉並で、仲間たちが行っている親と子の保養プロジェクトに参加したお母さんたちが、涙を流しながら、堰を切ったように語るのが、いつも気になっていた。県内では本音が言えない。子どもを避難させると“裏切った”と思われると。
自分の不注意と無知で、子どもに余計な被ばくをさせてしまったとのでないかと自分を責める親も多い。大量の鼻血などの健康被害が出ればなおさらだ。甲状腺ガンのこともよくわかっていない。
だが地元のこの雰囲気の中で、こうした裁判の原告になるのは、どれだけの勇気と覚悟が必要であったことか、と思う。
支援の会が出している「意見陳述集Ⅰ」に、12人の親たちの陳述が載っているが、本名を出しているのは、わずかに一人だけだ。
判決の前日、二人のお母さんたちから、その体験と思いを直接聞き、胸がつぶれそうになった。
しかし結果は、予想もしない全面敗訴であった。
垂れ幕の横で、あまりのことに、ただうなだれるお母さんの姿。
しかしその後の集会では、怒りしかないが、これまでも子どもたちに支えられてきた。子どもを守るために、これからも闘うと宣言した。子どもたちの未来のため、放射能の少ない環境で教育を受けさせたい、と願うのは、親として当然のことだ。
福島市内には、山に向かって走る道路がある。
もう1枚の写真は、福島市の南、二本松市から見た安達太良山と阿武隈川。
高村光太郎は、「智恵子抄」の中でこううたった。
「智恵子は東京に空が無いといふ、 ほんとの空が見たいといふ。
・・・
阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
ここだけでない。福島県を走ると、本当に美しい自然に出会う。
何でこんなところに放射能が、と思う
高濃度に汚染された、帰宅困難地域の中は特に美しい。
痛みを共有せねば。
あれから10年目を迎えるが、事実は隠されていくだけで、何も終わっていないのだと、とつくづく思う。
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