長い間準備を進めていた自分のHPを、10月末にやっと開設。お知らせが遅くなりましたが、三層60ページもある、中身の濃いものとなりました。ぜひご覧ください。
いやー、大変だった。
これまでの全作品を網羅。その中を、「三池」「作兵衛」「戦争と原爆」「まちづくりと子育て」「女性と映画」という5つのジャンルに分け、それぞれ代表作と関連作品を丁寧に紹介。制作中も。
アーカイブには、これまでの写真や文章も収めた。
雑誌等の掲載分から、特に大事だと思った<炭鉱で闘った女性><女性国際戦犯法廷傍聴記><子どもへの性暴力><アフガニスタン・パキスタン国境の見えない戦争><右翼を追ったルポ>。東京新聞夕刊に連載したコラム「放射線(現在は紙つぶて)」。
夏の間は、ただひたすら、写真の整理とデータ化に追われた。古いライトボックスの上に膨大な数のスライドを並べ、ルーペで覗き込む日々。
写真をきちんと撮り始めたのは、大学3年の時だ。独立を1年後にひかえたパプアニューギニアを歩いたが、何しろ50年近く前のこと。スライドボックスを開けたら、ツーンと酸っぱいにおいがし、ポジフィルムは退色。あーあ。
これらの写真は、当時大判の写真雑誌であったアサヒグラフに、文とともに7頁も載り、私の初めての仕事となった。
この時の巻頭グラビアが、一ノ瀬泰造の『銃声下の結婚式 カンボジア・アンコールワット付近で』。73年12月14日号。文には、11月初旬の撮影とある。
実は今回、久しぶりにそのグラフ誌を手にとった。彼が「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残し、アンコールワットへ向かったのは11月22日か23日。そして消息をたち、数日後にクメールルージュの手で処刑されていたことが、後でわかる。
発売時にはもう亡くなっていたわけで、今頃こんなことに気づくなんてと、頭をガーンと殴られた感じであった。
写真は他に、モロッコやタイ・バンコクのスラム。ここは、私がフリーの映像ジャーナリストとして再出発をした場所だ。父親の国籍がすべて違う5人の子どもたち(日本人の子も)を懸命に育てている、人のいい元売春婦の一家を中心に撮っていた。世間では下に見られる存在であったが、私には彼女が天使に見えた。そしてアフガニスタン、パキスタン、ルワンダ、沖縄・読谷村や東京・向島。
それらを見ながら頭をよぎったのは、私は撮らせてもらったけれど、果たしてその方たちの役に立つことを伝えてきたのだろうか、という思いだ。マスコミは“取材泥棒”になりがちだ。
コロナで先の見えない厳しい日々が続いている。意思をもって伝えていくためには、改めて持続力、瞬発力の鍛えなおしが必要だなと感じている。
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