私が以前作った2本の作品が、先日、京都大学で上映され、さらに来月、鎌倉市川喜多映画記念館で上映される。
『映画をつくる女性たち』(2004年 103分)
東京国際女性映画祭(1985~2012)の第15回記念作品として作った。
今、女性監督は珍しくはない。だが長い間、製作現場に女性は、女優とスクリプターとヘアメイクしかいなかった。日本の女性監督第1号は坂根田鶴子。女性には選挙権もなかった戦前のことだ。戦後になり、女優出身の田中絹代が続いた。
同映画祭のプロデューサー、岩波ホール総支配人だった高野悦子さんは、日本で女性が監督になる道は全くなく、フランスの高等映画学院に留学した。だがそこでも、監督科に女性は一人だった。
第1回目、海外から多くの女性監督が来日する中、日本からは羽田澄子さんだけだった。回を追うにつれ、日本からの参加も増えた。この作品は、日本の女性監督の歴史を伝え、同映画祭に自らの作品をもって参加した、20人あまりの日本人女性監督・プロデューサーにインタビューしたものだ。語られるそれぞれの人生がずしんと重い。
『挑戦』(1963年)で、カンヌ映画祭短編部門でグランプリを獲得した渋谷昶子さん。「よーいスタート」をかけると、“女の言うことが聞けるか”と、次々照明を消された、という。
私は、“人生の格闘技”の映画が作りたかった。女性が思いをこめた映画をつくるとは、生きている時代と社会と、さらに自分自身と格闘を続けることだと考えたからだ。
『日本初の女性映画監督 坂根田鶴子を追って』(2004年 22分)
坂根田鶴子(1904~1975)は、日本初の女性映画監督だが、世の中にあまり知られないままにきた。
京都に生まれ、自らの意思で離婚し、映画の世界へ。女がほとんどいない現場で、以後、男装を通す。溝口健二の助監督となり、劇映画の監督デビューを果たすも、内容、興行ともに振るわず、文化映画へ転身。北海道でアイヌの生活と文化を撮る。さらに満州映画協会で10作品を監督。うち『開拓の花嫁』だけが残っている。日本に引き揚げ後は、女性で大卒でないことを理由に助監督にすらなれず、スクリプターとして生涯を終えた。
初監督時にこう書き残している。
「私は、女の世界から見た真実な女の姿を、自分の人生観とともにくまなく描きたい」
この作品は、次に続く本格的な映画の序章として作った。「女と映画と戦争と」とタイトルまで決めていたが、京都、東京、北海道、満州と広範囲に渡り、ドキュメンタリードラマにしないと成立せず、金銭的に断念した。
京都大学での上映は、大学院文学研究科の、ミツヨ・ワダ・マルシア―ノ教授のお誘いによるものだ。京大と同志社の研究者・学生たちが観にきてくれた。終わった後に活発に議論。
観て話して、新たな勇気をもらった。しかし改めて感じたのは、作品を継続して作り続ける困難さでもあった。
上記2作品に加え、『開拓の花嫁』を、12月4日(土)・5日(日)14時から、鎌倉市川喜多映画記念館で上映する。
『開拓の花嫁』(1943年 22分)
唯一残る、坂根田鶴子の映画。満州埼玉村開拓団で撮られた。出演も開拓団の人々だ。ドキュメンタリーかと言われると難しい。内容は当時の日本国内の状況から見たら、ユートピアのような農村生活である。中心となるほほえましい若夫婦の姿。
これに対し、言うべきことはたくさんある。だが母子の描き方など、男の監督ならこうはならないだろう。
映画発見のいきさつも、ドラマティックだ。実際にこの映画を見せ、“開拓の花嫁”を送り出していた青森県の農村。元村長宅の蔵に、戦後長い間しまわれていた。訪ねた地元TV局の記者に、心配そうに出してきたそうだ。罪悪感の中で、ずっとかくし持っていたらしい。
同館では、12月12日(日)まで、「特別展 田中絹代 ー女優として、監督として」を開催中だ。
田中絹代は、大女優であり、映画監督でもあった。6本の作品がある。そして、田中絹代を語るにあたっては、坂根田鶴子に始まる、日本の女性監督の系譜もまた、知る必要がある。
ということで、一挙に3本上映だ。
なかなかないチャンスである。私もおります。
興味おありの方は、是非お出かけ下さい。
写真は、京大の方たちが作ってくれた素敵なポスター、坂根田鶴子、映画スタッフと坂根田鶴子(ききがき女たちの記録)、田中絹代、東京国際女性映画祭のプログラムから。
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