写真アーカイブ
パプアニューギニア
独立近づくパプアニューギニア|1973年
大学3年生の夏、パプアニューギニアを、一人で1か月近く旅をした。まだオーストラリアの国連信託統治領で、2年後の1975年に独立をすることが決まっていた。その自然や人々を描いた数冊の本に触発されたのと、“未開”とされた地が独立に向かう姿を見たかった。今はないが、日本とパプアニューギニアを結ぶ貨客船が就航したばかりであった。
残念ながら、50年前のポジ・フィルムは色あせてしまったが、それぞれの村の人々が、いかに親切にしてくれたかを思い出す。私の初めての仕事となり、アサヒグラフに、写真と文が10ページ載った。








タイ
バンコクのスラムから|1980年・1985年
ゴールデン・トライアングルと呼ばれたタイ、ミャンマー、ラオスの山岳地帯は、昔から世界最大の麻薬密造地帯だ。「追跡!麻薬のルーツ」という番組を作ることになり、そこに足を踏み入れた後、実際にヘロインが売られているバンコクのスラムに住み込んだ。底辺の貧しい生活で、周囲から蔑まれながらも懸命に生きているスラムの人々の優しさが身にしみた。ここで仲良くなったのは、スラムでも珍しい13歳のヘロイン中毒少年、ジュウとその一家である。
5年後、番組制作会社を辞めてフリーになった時、私はスラムから出発したいと思い、再びスラムに住み込んだ。月刊現代に「シムちゃんの父は日本人」として掲載。
麻薬を追う
第1回の1980年、ラオスとの国境地帯にあるメオ族の村に行った。彼らは伝統的に、ケシを作って生きてきた。またそこではラオス難民たちが、アメリカに行くために必死にアヘン中毒の治療を続けていた。一方私たちは、バンコクのスラムで撮り続けた少年を、麻薬専門の病院に入れ、様子を見てから帰国した。








麻薬刑務所での再会
5年後の1985年。ヘロイン中毒少年だったジュウの一家を訪ねた。ジュウは結婚し、今は、麻薬専門刑務所に入っている、という。日々の生活に追われ、面会に行く金も方法もない彼の妻を連れて、早速会いに行った。私を覚えており、頭を下げ、病院に連れて行ってくれた。もうへロインはやめた、今回はマリファナで捕まったが、自分は巻き込まれただけだと。前は字が読めなかったが、刑務所で字を教わったから手紙がほしい、とも言われた。妻と、思いやりあふれる新婚夫婦の会話をしている姿にほっとした。





スラム・クロントイ
クロントイは、バンコクで最も古く、最大のスラムだ。港の近く、どぶ川のような運河沿いに、小屋が細長く並び、4万人がひしめくように住んでいた。現在の数字では、バンコクには約2000のスラムがあり、クロントイだけでも10万人が暮らしている、という。難民も含めた出稼ぎ労働者の流入が続き、スラム横に公団住宅ができた。そこに移り住む人もおり、クロントイの規模が大きくなった。
仲良くなった女たちは、一人でカメラを抱えて住み込む私を守ってくれた。あいつは泥棒だから気をつけろ、などと注意してくれた。貧しく、衛生状態も極めてよくないが、しばらくいると、スラムに暮らす人々の、優しさや親切が身にしみるようになる。助け合わなければやっていけない。希望と絶望が入り混じった場所だ。

