連載アーカイブ

東京新聞 夕刊コラム『放射線』(現・『紙つぶて』)

東京新聞 夕刊コラム『放射線』(現・『紙つぶて』)

2007年1月15日

阪神大震災は、私にとっても大きな転換点だった。12年前のその日、私は『ふれあうまち』というドキュメンタリー映画を編集している最中だった。東京の向島と独ハンブルクの下町を舞台に、そこに住む人々が古いものを活かしながら、新しいまちをどうつくり育てていけるのかを描いた作品だ。燃える長田のまちを横のテレビで...続きを読む

東京新聞 夕刊コラム『放射線』(現・『紙つぶて』)

2007年2月5日

「ガイサンシー(蓋山西)」とは、“山西省一の美人”という意味である。それ故に彼女は、旧日本軍の手で、村では一番に捕えられ慰安所に監禁された。『ガイサンシーとその姉妹たち』は、本名、侯冬娥さんの人生を、同じように“従軍慰安婦”にされた女性たちの証言から描いたドキュメンタリー映画だ。その上映シンポジウムの司会を引き受けた...続きを読む

東京新聞 夕刊コラム『放射線』(現・『紙つぶて』)

2007年3月5日

娘が、希望の都立高校に合格した。実は中学受験をし、自分で選んだ大学付属校に入ったが、あわなかった。1学期の半ばから休みが始まり、2年の2学期から完全に不登校となった。前の夜は学校に行く、というのだが、翌日になると昼すぎまで起きられない状態が続いた。めまいや頭痛もひどかった。こう書くとひ弱な子を想像するが、...続きを読む

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2007年3月26日

日本最大だった三池炭鉱が、3月30に閉山10年を迎える。ドキュメンタリー映画『三池終わらない炭鉱(やま)の物語』を作っている時、何で今さら、とよく聞かれた。囚人労働、強制連行、そして戦後の争議、事故と、まさに日本の歴史の縮図で、そこに生きた100人近い方々の証言を撮影し、7年がかりで完成させた。昨年、東京などで異例のロングラ...続きを読む

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2007年4月16日

この季節になると、自分の新入社員時代を思い出す。小さい頃からずっと新聞記者志望だった。しかし当時、女性記者を採る社はほとんどないうえに、オイルショック後の不況で、前年に女性記者を採用していた所は、試験はしても採らなかった。途方にくれているところに、まだできて2年目の、TVドキュメンタリーを専門に作っている制作会社が、男女を...続きを読む

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2007年5月14日
 

またしても左眼がヘルペスになった。多分4回目だ。原因は、多くの人が感染し、日ごろは神経の中に潜んでいるウィルスだ。いやなヤツで、疲労がたまると人の弱さにつけこんで顔を出す。私の場合は角膜内部に出てしまうので、眼が白く濁り、目の前に、厚い白いカーテンがぶら下がった感じになる。こうなると、目玉を取り出して洗って戻したい、という衝...続きを読む

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2007年6月4日

「一緒に組むはずだったアフガン人の医者が、昨年殺されました」今から20年前、パキスタンの国境の町ペシャワールで、ユニセフの責任者として働いていた喜多悦子さんは、私のカメラにそう言った。彼女は、日本人として初めて紛争地へ派遣された医者である。もともとは小児科医で血液の専門家だったが、その後カンボジア、ルワンダ、コソボなど70ヶ国...続きを読む

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2007年6月25日

連載の最後に、虐待を受けて育った私の友人のことを伝えたい。4歳で交通事故に遭い、弟は脳に損傷を負い、母を失った。数年後に父は再婚、小学校3年の時から、義母による暴力が始まった。殴る蹴るは日常、階段から突き落とされ、引きずり回された髪の毛は束になって抜け、熱いヤカンをつかまされ火傷をした。夜、寝ていると、鬼のような顔で...続きを読む

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2007年1月22日

忘れられない強烈な原点がある。六十年安保の時、私は小学校三年生だった。テレビをつけると「安保反対、岸倒せ!」のシュプレヒコールとともに、国会周辺の激しいデモとぶつかり合いの様子が、連日映し出されていた。子ども心にも、何かしなくてはいけない、と思ったらしい。私は学校から帰ると、ランドセルを放り投げ...続きを読む

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2007年2月19日

その学生たちと会ったのは、「三池と夕張から日本を掘る」というシンポジウムの場だ。昨年秋、私の作ったドキュメンタリー映画『三池終わらない炭鉱(やま)の物語』、東京の再アンコール上映初日だった。三池炭鉱のあった大牟田と夕張からもゲストを呼び、炭鉱に思いをよせる人々が集まり、語りあった。その場で「夕張...続きを読む

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2007年3月12日

「ああ何だかとんでもないものを観てしまった」と、その映画を見終わった途端に思った。畏怖と畏敬の念からだ。『大野一雄ひとりごとのように』というドキュメンンタリーである。大野一雄さんは、昨年100歳を迎えた世界的に著名な舞踏家だ。5年前に行われた、最後の公演前後の数ヶ月を追ったものだ。そしてこれは、老舞踏家と名カメラマンが、魂と...続きを読む

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2007年4月2日

フィギュアスケートを見ていると私はいつも、華麗さの裏にある“痛さ”を、想像してしまう。というのは、実は高校時代に水泳の飛び込み競技をやっていた。3メートルの飛び板飛び込みと10メートルの高飛び込みである。どんな技も、まず1メートルの台から始め、高さをあげていく。始めた頃、身体は全身あざだらけだった。...続きを読む

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2007年4月23日

アメリカの銃の乱射事件で、忘れていたいやな感覚を思い出した。もうずいぶん前だが、テレビドキュメンタリーでとりあげるために、ジョージア州・アトランタ郊外にある“テロ対策学校”に、1週間だけ体験入学をしたことがある。そこでまず最初にやらされたのが、コルト45オートマチック拳銃の分解掃除だった。日本ではむろん、拳銃など触ったことも...続きを読む

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2007年5月21日

娘が都立高校に入学してから1か月たった。「皆が格安ブランドの服を着ていてよかった」とうれしそうに言う。初めは意味がわからなかった。実は以前に、入った私立中が合わずに不登校に陥り、自分で決めて公立校へ戻った、という経緯がある。その中学で「あのブランドは安っぽい」と言われているのを聞き、普段は制服だが、私服で通す夏の林間学校には...続きを読む

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2007年6月11日

「今も続けて下さっているのよね」と何年か前、久しぶりに会った被爆者の方に言われた。ハイと答えたものの心の中では、「あれから作品としては作れていないんです」とあやまった。過去にいくつか、原爆のテレビドキュメンタリーを作ってきた。最後が終戦50年の95年で、『はだしのゲン ヒロシマからアメリカへ』だ。作者の中沢啓治さんと核...続きを読む

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2007年1月29日

「狂乱・脳乱中学受験」とは、3年前、娘が中学受験をした後に、書こうと思った本のタイトルだ。
私自身は、自分が小中高と大学付属校で育ち世の中を知らなかったという反省から、子どもは公立校、と決めていた。ただゆとり教育への転換期で、多くの母親同様、不安にかられ、受験をすることにした。2月1日の受験日、...続きを読む

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2007年2月26日

「今のテレビには志がない」。その文章の裏側からまるで怒声が聞こえてきそうだった。約十年前、この東京新聞に、牛山純一さんが亡くなる少し前に書いたコラムである。牛山さんは、私がフリーになる前にいた番組制作会社、日本映像記録センターの代表だった。彼が日本テレビのプロデューサー時代につくったのが『南ベトナ...続きを読む

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2007年3月19日

娘の公立中学の卒業式だった。その前夜、1980年代に自分で作った2本のテレビ・ドキュメンタリーを見直した。君が代斉唱の時、どういう態度をとるべきか考えたかったからだ。番組の一つは『女にとっての戦争とは』という。戦争の中で、日常生活が徐々に侵される怖さを描きたかったので、太平洋戦争下の、女性と子どもの暮らしに焦点をあてた。...続きを読む

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2007年4月9日

高校生になる娘が、春休みに、障害を持つ子どもたちのスキー合宿に、初めてのボランティアとして出かけた。そして宝物をもらったかのように生き生きと戻ってきた。先天性四肢障害児父母の会という。生まれつき四肢のどこかに“障害”がある子どもと親の会である。25年も前、TVドキュメンタリーの取材の過程で知り合った。...続きを読む

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2007年5月7日

「日本映画復興会議」奨励賞をいただいた。その翌日、偶然にも昨年同じ賞をもらった埼玉県の深谷シネマ主催で、以前つくった映画「ふれあうまち」を上映した。深谷は中仙道の宿場町だ。古い建物が所々に残っている。深谷シネマも、もともとは商店街の閉鎖した銀行だった。そこを市が買い取り、市民のNPOが借り、改装して五年前に運営を始めた。...続きを読む

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2007年5月28日

「エージェト・オレンジ」とは、ベトナム戦争で化学兵器として使われていた枯葉剤だ。同名のドキュメンタリーを観た。作った坂田雅子さんは、4年前に54歳で亡くなった報道写真家、グレッグ・デイビス氏の妻だ。結婚する時、ベトナムで枯葉剤を浴びているので子どもは作れない、と言われたそうだ。死因は肝臓がんだった。彼女は悲しさを乗り越えるために...続きを読む

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2007年6月18日

「まちづくり元気ウィルスが行く♪」というミュージカルをつくったことがある。そのドキュメンタリーもある。1997年に「安全・安心まちづくり女性フォーラム」をという活動を始めた。当時の建設省が金を出したが、口を出さなかった。そして全国23地域の女性住民たちが、自主的な活動をくり広げた。始めから3年限定の活動で、まとめの年に...続きを読む