森崎和江さんが亡くなった。
ご自宅にインタビューにうかがった時のことを、ありありと思い出す。映画『作兵衛さんと日本を掘る』の大事なシーンになった。
激しい生き方をされてきたはずなのに、本当に愛らしいおばあちゃんだった。
山本作兵衛さんからもらった絵を横に置き、待っていて下さった。
あげると喜ばれるので、何枚も何枚も描いたという、男女混浴の炭鉱の風呂の絵。私は数枚見ていたが、作兵衛さんが、森崎さんにあげようと心をこめて描いたその絵は、息をのむほど美しかった。
朝鮮で生れ育ち、福岡に戻り筑豊に出会うまでは、石炭を地の底で掘っているとは知らなかった。ましてそこで女性が労働しているとは。
話を聞きたいと会いに行くと、かつて坑内で働いていていたばあちゃんたちが、よう来たなと喜んで語ってくれた。その頃、世間から下に見られている労働や生活のことを、わざわざ聞きに来る人はいなかった、と思う。あまりの内容にびっくりし、涙を流しながら聞いたそうだ。
それが最初の著作、「まっくら ―女坑夫からの聞書き」(1961)
「炭鉱にね、私は育ててもらいました。あの人たちの生活によって、一人の人間に育てられ、日本をどう見るかってこともよくわかりました」と話して下さった。
「まっくら」には、心ふるえる話がいくつもあるが、わたしが最も好きなのはこの言葉。
―おなごは男と喧嘩するがいちばんいい。理屈とケツの穴は一つしかなか。 男でもおなごでも同じじゃろうもん。まっすぐかことはおなごもいい通さな。―
創作活動だけではなく、“実践”もされていた。法律で女性の坑内労働は禁止されていたが、筑豊の旧産炭地は、日本の貧困を代表するような場所、でもあった。
あいていた炭鉱長屋の一部屋を借り、友達と一緒に「スイスイ託児所」を作った。託児所の張り紙の前で、子どもたちに優しいまなざしを向ける森崎さんの写真。映画内で使わせていただいた。
そして「与論島を出た民の歴史」(1971)
明治の終わりに、度重なる台風と飢饉に襲われた島から、三池炭鉱に集団移住した人々。そこでは、周囲の心ない差別と、安い賃金での過酷な労働が長い間続いた。
ノンフィクション作家だから、現場を訪れ、人々に話を聞くのは当然である。
だが三池炭鉱に移住した人々やその子孫の中には、差別をおそれ、自身が与論出身であることを隠す人も多かった。
私自身、映画『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』を作る際に、三池炭鉱のあった大牟田・荒尾与論会の元会長から、自分たちがどれだけ惨めな思いをしたのかを子や孫に伝えたくない、と証言を拒まれ、苦労した経験がある。
この本は、「彼らの歴史に心ひかれていた私たち」が、明治の集団移住以来初めての訪問団に同行する、ところから始まる。
「まっくら」でも同じであるが、当時、与論島から移住して来た人々の話をきちんと聞き、伝えようとした人がどれだけいたのだろうか、と考える。さらにその人々に、好意をもって受け入れられた人がどれだけいたのかと。
さらに、引用されている資料・文献が丹念で的確だ。共著ではあるが、これだけの調査をするには、どれだけの膨大な時間をかけ、努力をしたのかと、頭がさがる。ずっと参考にさせていただいている。
撮影は2013年。3年くらいして長期に入院されてしまったから、その後、他の方が撮影していなければ、おそらく最後の映像である。
森崎和江さんの姿を見、声を聞きたい方、どうぞ映画のHP https://www.sakubeisan.com/ から、予告編をクリックして下さい。
ここに出てくる、画家の菊畑茂久馬さんも、元女坑夫のカヤノばあちゃんも亡くなった。記録を残しておいてよかったとつくづく思う。
森崎和江さん、ありがとうございました。残して下さった大事なもの、まだまだ掘り続けます。
写真は、インタビュー時の森崎さん。著書「まっくら」。最初は文章だけだったが、出してすぐ、作兵衛さんからありがとう、と連絡があったそうだ。中で挿絵に使われているのと同じモチーフの絵。森崎さんいわく“地の底の男女平等”。そして「与論島を出た民の歴史」
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