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被爆者の方たちが夢の中にたくさん出てきて・・・2021・09・09

 2か月ほど前のことだ。夢の中に、知っている被爆者の方が“ぞろぞろ”という感じで現れた。すでに亡くなっている方が多い。場所はどこかの映画祭。私がかつて作った『幻の全原爆フィルム日本人の手へ 悲劇の瞬間と37年目の対面』を上映し、作品内で証言をして下さった方たちを、観客に紹介している。

 中でも力を入れて紹介しているのは、「私を平和の道具に使って下さい」と口癖のように言っていた、長崎の片岡津代さんだった。  

 1980年代に、米国立公文書館に眠っている原爆フィルムを、市民一人が10フィートずつ買いとり映画を作ろうという、“10フィート運動”があった。何本かの映画がつくられ、私は最も長いテレビ版を担当した。

 被爆翌月から日本人スタッフが、3か月後から米戦略爆撃調査団が撮った記録映像がある。映っている方たちを探し、その証言を中心にまとめた作品だ。


 そんな夢を見たのは、数日前に読んだ記事のせいだった。

 オリンピック前に、IOCバッハ会長が広島を、コーツ副会長が長崎を訪問する。それに対し、私がよく知っている長崎原爆被災者協議会・会長の田中重光さん(80歳)が、記者会見で大変に怒っている写真を見たからだ。マスクの下から、その怒りが伝わってきた。

 コロナ感染がおさまらない中でのオリンピック開催、「自分たちの権威を示すためだと思える」と。私もまったく同感で、これでは被爆者が“政治の道具”にされているではないか。


 これで思い出したのは、次の事件だ。

 1989年9月、核ミサイル搭載の疑いがあった米のフリゲート艦が、長崎港に入港。

 翌日、艦長らが平和公園で献花。平和祈念像前に座り込んでいた被爆者たちの手前に花輪を置き、立ち去った。追いかけたカメラマンの足が当たって倒れた。その時、当時、長崎被災協の会長だった山口仙二さんが、「これは献花じゃない!」と言って、花輪を何度も踏みつけ、二人ほどが続いた。

 この行為は、激しい非難にさらされた。でも、私には痛いほどわかった。あの場にいた被爆者の気持ちはみな同じだったと、次の会長となった谷口稜曄さんは後に語っている。

 山口仙二さんは普段は大変温厚な方で、私自身も、周囲と同じように、仙二さんとか、センちゃんと呼んでいた。


 7月16日、コーツ副会長は長崎に来たが、原爆資料館の滞在は、わずかに20分だったという。20分で何がわかるのだろう。


 しかし安倍晋三は、在任中9回も長崎を訪問しながら、一度も原爆資料館を訪れていない。それに比べればまだましか、という、極めてレベルの低い論議をしなければならないのが悲しい。


 原爆式典後に、首相と被爆者団体代表との面会が行われる。2019年に田中重光さんは、原爆資料館への訪問を、「被爆者からの宿題です」と直接訴えた。翌20年、要望書に「資料館を自身の目で見て、感じて、考えてください」との一文が盛り込まれたが、首相からは具体的な回答はなかった。


 私は被爆70年目に、田中重光さんとニューヨークにご一緒したが、この時は谷口稜曄さんを撮影しつ、同時に谷口さんの健康状態をケアする役割も負っていたので、個人的に体験を聞く機会はなかった。


 戻ってから、長崎被災協が出した『ノーモアヒバクシャ 被爆70年 私たちのメッセージ 「継承・警鐘」』の重光さんの手記を見て、驚いた。

 母が病弱になってから、父の苛立ちが多くなり、暴力をふるうようになって、母は何度も家出を繰り返したこと。

 1948年に生まれた妹の妊娠を知った時、母は石を抱いて水風呂に入り流産しようとしたこと(妹さんはお元気です)。

 父は57歳で肝臓ガンで亡くなった。

 妻は被爆二世で、現在、難病にかかり、透析をしている。孫の一人は横隔膜欠損で生まれ、体温が低く、常温になることもなく三日の命だった。

 そして中学時代の恩師、原爆詩人の原口喜久也さんは白血病になり、病院を抜け出して、原爆資料館の中で、核実験に抗議の自殺をした・・・。

 これだけで、たった一人の被爆者の体験である。


 私は今も長崎行き、片岡津代さんが暮らしていた狭い坂道のまちを歩いていると、どこからか津代さんが、ふっと笑顔で現れるような気がする。

 「私を平和の道具に使って下さい」という言葉を何度も聞いた。でもそう言えるようになるまでに、どれだけの苦しみと葛藤があったことか。敬虔なカソリック信者らしく、一人暮らしの小さな部屋にはマリア像が飾ってあった。


 私はこの夢を見た後、自分の中でまったく整理がつかなかった。。

 ただ少なくとも、何らかの形で伝えなくてはならない、と思った。

 1か月遅れの、個人的な長崎原爆忌となった。



 写真は『幻の全原爆フィルム日本人の手へ』から。

 被爆当時の片岡津代さん。思いを語る様子。笑顔で迎えてくれる。

 被爆当時の山口仙二さん、14歳。衣服を脱いで、体験を語ってくれた。


 今年6月、記者会見での田中重光さん(共同通信)。

 2015年、ニューヨークの空港で帰国前。左より熊谷、田中重光さん、故谷口稜曄さん、被災協事務局長の柿田富美枝さん。怒っているだけではない。




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 この時期になると、お会いしてきた被爆者の方たちの顔が、次々と浮かぶ。もう亡くなられた方も、ご存命の方もいらっしゃる。そして改めて、私はきちんと伝えてきただろうか、今、伝えているだろうか、そして今後、伝えていけるだろうか、と自問する。

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